【竹中半兵衛の弟】知勇兼備・竹中久作【太閤立志伝5DX武将解説】

2022年6月21日 アイキャッチ 太閤立志伝5DX
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その高すぎる自由度から熱狂的ファンの多いコーエーテクモのゲーム、太閤立志伝5。
長らく続編を待ち望まれていましたが、ついに2022年5月19日、リマスタリング版「太閤立志伝5DX」が発売されました。
ブログ主も大絶賛プレイ中なのですが、新しく追加された武将たちの中にはあまり馴染みのない顔もちらほら…。
というわけで、「太閤立志伝5DX」の新規追加武将たちを知ってる人も知らない人もまとめて確認していきたいと思います。
ちなみに、個人的なプレイ履歴も兼ねているので、取り上げる順番は主人公札入手順です。あしからずm(__)m

では、さっそくやっていきましょう。初回はこの人!「竹中久作」!おなじみ竹中半兵衛の弟さんです。

久作兄はおなじみ戦国最強軍師「今孔明」竹中半兵衛!

太閤立志伝5DX 竹中半兵衛

おさらいするまでもないかもですが、一応、お兄ちゃんの半兵衛さんの略歴をざっくりと。

竹中半兵衛(1544~1579) 名は重治。美濃斎藤氏家臣、竹中重元の嫡男。1556年、長良川の戦い(道三方)が初陣。1560年、家督を相続し、菩提山城主に。翌1561年、主君の斎藤義龍が死去。引き続き、跡を継いだ龍興に仕えますが、ここが不運のはじまり…。

この頃、織田信長が亡き舅、斎藤道三の遺言を名目にしきりに美濃に攻め込んできていました。義龍健在時は上手く守っていたものの、龍興の代になると、家臣の流出が相次ぐようになり、彼の不行状とも相まって、次第に織田の侵攻を押しとどめることが困難な状況になっていきます。そんな緊張感漂う情勢の中で起こったのが、「稲葉山城乗っ取り事件」です。

永禄7年(1564年)、2月。竹中半兵衛とその舅、安藤守就が、わずかな手勢を率いて、白昼堂々、斎藤龍興の居城、稲葉山城を急襲。佞臣、斎藤飛騨守ら6人を討ち取り、主君、龍興も追い出して、城を占拠したのです。
さすがに強引すぎたのか、半年ほどで奪い返されてしまいますが、堅城で知られる稲葉山城があっさり陥落してしまったことは周辺諸国に大きな衝撃を与えたようです。
同時に、竹中半兵衛の手腕に注目が集まります。特に熱い視線を送っていたのが織田信長。

永禄10年(1567年)、斎藤家が滅ぶと隠棲していた彼に、信長から出仕のお誘いがかかります。
当時、頭角を現し始めていた木下秀吉の「三顧の礼」にほだされて、信長の直臣ではなく、秀吉の家臣として仕えることを望んだ…という逸話は太閤5の史実イベントでも取り上げられていますね。
秀吉の家臣なのか信長から付けられた与力なのかは考察の余地のあるところですが、とにかく半兵衛は秀吉の部下として、主に調略方面にその才覚を発揮します。

天正5年(1577年)、上司の秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、半兵衛もそれに従い、遠征に参加。黒田官兵衛とともに播磨福原城を攻略します。さらに、宇喜多方の備前八幡山城主、明石景親(明石全登の父)と通じてこれを投降させるなど、信長からも激賞される活躍ぶり。
しかし、播磨三木城を包囲の最中、病に倒れ、天正7年(1579年)6月13日、ついに陣中で亡くなってしまうのでした。享年36。

そんな竹中半兵衛の弟、竹中久作。彼はどんな人物だったのでしょう。

弟も知勇兼備の名将!でも死期まで似なくても…。

太閤立志伝5DX 竹中久作

竹中久作は半兵衛の2歳年下の1546年生まれ。名は重矩。兄が名を上げた稲葉山城乗っ取り事件に彼も関わってきます。

この事件で半兵衛は、「病の弟の見舞い」と称して城に侵入しますが、この時の自称・病気の弟、というのがこの久作。人質として稲葉山城にいたようです。半兵衛とその手勢たちは、彼の部屋で武装し、事を起こしたと言われています。

永禄10年(1567年)、斎藤家が滅ぶと彼も兄と同様に織田家に仕えるようになります。

元亀元年(1570年)、姉川の戦いが勃発。織田・徳川軍は浅井・朝倉軍を激戦の末、打ち破りますが、ここでヒヤリとする事件が…。

浅井勢が総崩れの中、浅井家の重臣、遠藤直経が味方の首をぶら下げ、織田方武将のふりをして、織田本陣内に侵入してきたのです。首実検の際に信長に近づき、彼を暗殺する計画だった模様。実際にあと少しというところまで進み出たようですが、それを阻んだのが、竹中久作でした。

竹中兄弟は例の稲葉山城乗っ取り事件のあと、織田家に仕えるまでの間に、浅井家の世話になっていた時期があり、遠藤と顔見知りだったのです。久作は以前から「遠藤を討ち取る」と公言していた、という話もあります…。なにか遺恨でもあったのでしょうか…?まぁ、経緯はさておき。遠藤は決死の賭け敗れ、久作に討ち取られてしまったのでした。

その後、天正7年(1579年)に、亡くなった兄の代わりに秀吉の与力に。天正10年(1582年)3月には、武田征伐に向かう信長に従って、信濃に出陣しています。しかし同年6月、本能寺の変の後、美濃で発生した郷士一揆と戦って無念の討死…。享年37。

まとめ

  • 竹中久作(竹中重矩)(1546~1582)。兄は竹中半兵衛(竹中重治)。
  • 兄が名を上げた「稲葉山城乗っ取り事件」の功労者。
  • 姉川の戦いで、浅井家の重臣、遠藤直経を討ち取る功を立てる。
  • 織田家の武将として各地を転戦するも、本能寺の変後、一揆に敗れて討死。

病死と討死という違いはありますが、どちらも働き盛りの30代で亡くなった竹中兄弟。武功を上げ続けている中での死で、とても残念ですね。せめてゲームではもっとたくさん、長く活躍させてあげたいところです。

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