古き名族の名跡を次代に繋げた男・三枝昌貞【太閤立志伝5DX武将解説】

2022年11月8日 アイキャッチ 太閤立志伝5DX
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太閤立志伝5。旧作が発売されたのは2004年のこと。DX発売までの18年の間には、実名がはっきりするなどして、呼称の変わった武将たちもいます。
それを反映して、太閤5DXでも、岡利勝→岡家利、馬場信房→馬場信春などの武将が旧作から名前が変更になっていますね。
今回取り上げる三枝昌貞も少し前までは三枝守友と呼ばれていました。
武田二十四将の一人でもある、三枝守友あらため三枝昌貞を詳しくみていきましょう。

古き名族・在庁官人、三枝氏

三枝氏は古代甲斐国の在庁官人であったといわれる大変古い名族でしたが、戦国時代にはすっかり没落していました。

在庁官人とは、平安中期以降に、朝廷から派遣された国司のもと、国衙と呼ばれる地方の政庁で実務を担っていた現地雇用の地方官僚たちの総称です。
10世紀半ば頃に、国司が任国に赴任しない「遥任」が一般的になってくると、彼らは地方行政の全般を取り仕切るようになります。そして、力をつけた在庁官人はやがて武士へと成長していきました。

しかし、全ての在庁官人が上手く成長できたというわけではありません。
応保2年(1162年)、甲斐守に任じられた藤原忠重は、目代(遥任国司が任国に派遣した私的な代官)の中原清弘に命じて、甲斐国八代荘に軍兵を差し向けました。在庁官人として軍務を預かる三枝守政もそれに従います。

八代荘(山梨県笛吹市八代町)は、久安年間(1145年~1151年)に藤原顕時(公卿。藤原北家勧修寺流。中山中納言)が熊野本宮大社に寄進した荘園です。

当時、上皇やその近臣らの間では熊野信仰が流行しており、諸国で社領の創建や拡張が盛んに行われていました。
八代荘も鳥羽法皇より院庁下文(いんのちょうくだしぶみ。平安時代院政期に、上皇直属の政府機関から発給された公文書)を得て、正式に熊野社領荘園と認められます。またこれにより公租も免除となりました。
数年後には加納田(荘園として本来承認された田地のほかに、別途耕作してその荘園の付属地として認められた田地)も加えられ、大変な権勢を誇っていたようです。

行政側としては、放っておけなかったのでしょう。八代荘に押し寄せた彼らは牓示(ぼうじ)という荘園の境界を示す標識を抜き取り、社殿を取り壊すよう迫りましたが、荘園の神人に抵抗され、年貢の強奪、荘内要人の追捕、神人の監禁傷害など乱暴狼藉を働きました。

この蛮行に対して、熊野神社は朝廷に提訴。裁判が行われた結果、神社側が勝訴します。藤原忠重、中原清弘、三枝守政、三者とも処罰されました。
八代荘停廃事件と呼ばれるこの事件をきっかけに、三枝氏は没落。以降甲斐では彼らに代わって甲斐源氏が台頭していくことになります。

その後の三枝氏の動向はよくわかりません。ただ、山梨県笛吹市福光園寺所蔵の「木造吉祥天及び二天像」(国指定重要文化財・寛喜3年/1231年)の胎内墨書銘に、三枝氏の名前が寄進者として記されています。おそらく没落後もしたたかに家名を保っていたのでしょう。

山県昌景からも期待される若手のエース・三枝昌貞

太閤立志伝5DX 山県昌景

時は流れて16世紀。応永23年(1416年)に起こった上杉禅秀の乱を契機に、1世紀余りに渡り混沌の渦の中にあった甲斐国は、武田信虎によって統一を果たしました。しかし、この頃に三枝宗家が断絶してしまったようです。
これを惜しんで、武田信虎が、三枝氏の支族である石原守綱という人に名跡を継がせ、再興させました。この守綱が、三枝昌貞の祖父だといわれています。

彼ら戦国期の三枝氏は、武田家の重臣、山県昌景の寄子だったようです。
昌貞は石原(三枝)守綱の子、三枝虎吉の嫡男ですが、「甲陽軍鑑」では、出自は山県氏で、三枝氏の養子になったとされています。
いずれにせよ、山県昌景とは非常に強い結びつきがありました。三枝昌貞は昌景の娘婿となり、山県姓を名乗ります。また、昌貞の末弟の昌次は昌景の養子となりました。

そんな三枝昌貞は天文6年(1537年)生まれ。武田信玄の奥近習衆に抜擢されます。その後、武功を認められ、30騎と足軽70人を率いる足軽大将に出世しました。
また、第四次川中島の戦い(永禄4年/1561年)に際して、信濃における活躍により知行を与えられています。
その後、永禄6年(1563年)には、亡くなった叔父・新十郎の遺児の養育と後見を任され、この頃から、三枝氏の中心として、活発な働きをみせるようになります。その後は奉行衆や御料所の代官をなどを務めています。

ところで、昌貞は弘治年間(1555~1558年)、信玄からの勘気をこうむって、謹慎していた時期があるようです。
彼に関する文書には、信玄直筆による叱責などの感情的なものも多く含まれており、加増を躊躇する文言が書かれたものもみられます。
その一方で彼は順調に出世を重ねており、信玄の彼に対する複雑な愛憎がうかがえます。
永禄8年(1565年)に起こった義信事件後に度々起請文を提出しているので、義信に近かったのかもしれません。

また、永禄11年(1568年)より始まった駿河侵攻では、同じ奥近習衆の同僚、真田昌幸や曽根昌世らとともに活躍しました。
とりわけ激戦となった花沢城攻めでは一番槍の武功を立て、信玄からは感状を、昌景からは名刀「吉光」を与えられたと甲陽軍鑑は記しています。
信玄没後も、引き続き、跡を継いだ武田勝頼のもとで武功を上げ続けました。

壮絶な討死を遂げるも、家名は末永く

太閤立志伝5DX 三枝昌貞

そんな昌貞の最後の戦いとなったのは、長篠の戦い
天正3年(1575年)5月18日。織田・徳川両軍は長篠城近くの設楽原に陣を張ります。
これを受けて、山県昌景ら武田の重鎮は撤退を進言しましたが、勝頼はそれを退け、決戦を行うことを決定します。

一方、三枝昌貞は、一門衆の河窪信実(信玄の異母弟)率いる別動隊に配属されていました。彼らは長篠城を監視・包囲するために築かれた鳶ヶ巣山(とびがすやま)を守備するのが任務です。
この砦には4つの支砦があり、昌貞はそのうちの姥ヶ懐(うばがふところ)を弟らと担当していました。

5月20日深夜、織田信長から奇襲を命じられた徳川方の酒井忠次は、4000の兵を率いて、尾根伝いに武田軍の後方へ回り込み、夜明けとともに、鳶ヶ巣山砦に襲い掛かります。

昌貞の守る姥ヶ懐砦は鳶ヶ巣山のふもとにありました。高所から攻めかかられた上、数にも劣る姥ヶ懐砦守備隊は圧倒的不利の中でも奮戦目覚ましかったといいます。
しかし、次第に戦況が押されていく中で、隣の君ヶ伏床(きみがふしど)砦を壊滅させた部隊が増援に加わり、昌貞は2人の弟・守義、守光とともに討死しました。

愛知県新城市の長篠古戦場にある姥ヶ懐砦跡には、三枝兄弟の墓碑が建てられています。なお、山県昌景の養子となった弟・昌次も設楽原決戦にて討死したようです。

長篠の戦いで大きな打撃を受けた三枝氏。父の虎吉は健在とはいえ、彼の子は昌貞の弟、昌吉ひとりとなってしまいました。昌貞の子、守吉はまだ幼年だったため、この昌吉が陣代として後を継ぎます。
彼らは天正10年(1582年)3月に武田氏が滅亡した後も生き残り、新たに甲斐を支配することとなった徳川家康に仕えました。

昌吉は第一次上田合戦、小田原征伐、会津征伐、大坂の陣とその後の徳川家の主だった合戦に従軍。虎吉は武田の旧臣で構成される徳川四奉行の初期メンバーに抜擢され、徳川家の甲斐支配に貢献しました。
その後三枝氏は昌吉系と守吉系の2家に分かれつつ、江戸幕府の旗本寄合として長く続くことになります。

まとめ

  • 三枝氏は古代より続くといわれる名家。三枝昌貞の祖父が名跡を継いで再興する。
  • 昌貞は主君・武田信玄や舅・山県昌景から篤く期待され、またそれに応えて武功をあげてきた名将である。
  • 三枝昌貞死後、遺族は徳川家臣に。武田旧臣として厚遇を得、長く家が続くことに。

三枝昌貞死後の三枝氏の動向は今回初めて知りましたが、大身旗本になっていたんですね。
武田旧臣組の中でも彼らが特に厚遇を得られた礎は昌貞が築いたのではないでしょうか。
何度も矛を交えた武田と徳川。きっと三枝昌貞の奮戦が、家康の印象に強く残っていたのではないかと感じました。

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